前向きに。(2010年4月23日の出来事から)

 

今週、また一人部下が辞表を出してきたものですから、その後処理やら今後の体制をどうするかなどで追い回されていました。これで私の元で辞めて行ったのは都合3人になりました。

 

周りからは「また辞めたの?辞められちゃったんじゃないの?ちゃんと研修してるの?」などと言われたりするのですが。でもね…ま、あまり大きな声では言えないんですが…正直、辞めるように仕向けて来たワケなんです。はい。

何故なら、これには私なりの明確な戦略があったからなのです。今、私が預かっている部署のこれまでの経緯と、これからの方向性に関しての戦略が。決して自然に任せたものではないのです。

 

私が今の部署に来た頃、この部署の業務はかなり限定されていました。業務管理規定に書かれてある業務内容の、ごく一部を担当しているに過ぎない状態でした。ですから人員もそう多くは必要なく、人員のスキルもさほど高いものを要求する必要がありませんでした。

しかし時が経つに連れ、会社の成長と共に、この部署も必要最低限の業務をこなしている訳には行かなくなったのです。

 

経営サイドのスタンスとして「システム投資に金を掛けない」という方針があるために、嫌でもマンパワーに頼らざるを得ず、まずは頭数を揃える必要に駆られたのでした。ですからその頃の私の労働環境は、それは酷いものであったのですが。

 

さりとて直ぐに採用をかけて、とは行きませんでしたので、他部署で持て余された人材を中心に補強せざるを得ませんでした。社内力学どうこうを言うより、会社全体が苦悩していたのだと思います。私は兎に角、質より量というコンセプトで頭数の確保に走りました。当然、ギャップは生じます。目をつぶれる所はつぶり、それが出来ない所は私が被りました。

 

しかし、それもやがて限度が来ます。私が耐えられるか否かという基準で考えてはいけないのです。企業とは客観的なものですから。

理想的な、期待にそうような人材が集められる保障など何処にもありません。さりとて、いくら研修した所で元々やる気の無い人や志の低い人には研修の効き目にも限度があります。それは担当業務の性格にも拘束されてはいるのですが。

 

能力は低くてもいい、真面目な人ならそれでいい、と考えた時もありました。しかし「真面目」という言葉に関して、私の認識が誤っていたのでしょう。結論を言えば、リスクを取らない人を「真面目」と勘違いしていたのです。結果として、私が被らなければ収まらない事態がしばしばになりました。

 

私が責任を負うのはいいのです。管理職ですから当然です。ただ、そんな事を続けていても本人の成長には繋がらないし、組織としての将来もない。私の会社なら、私企業ならそれでも良いのかも知れませんがそうではない。では、どうするか。ある決断をしなければなりません。

 

今の部署の業務内容に照らし合わせて、必要なレベル・スキルは何かを明確にし、それに至っていない人材は徹底的に研修をし、それでも本人が意識を改めたり努力しないか、あるいは資質的に能力が低いと判断するに至った人材は切る、と決めました。

 

ここで重要なのは、資質の問題だけでは判断しないという事です。「本人が意識を改めたり努力」するのであれば、それは評価の対象になります。もちろん、口だけで行動が伴わないのはいけません。抽象ではなく具体が大切なのです。実際に変わった、変わりつつあるという事実が必要です。そしてもう一つ、時間軸も大事です。社員の成長スピードが会社のそれに追いついて来られないのであれば、どこかの時点では判断せざるを得ません。

 

そうと決めたら話は簡単です。周りの、三流評論家の如きは屁でもありません。相対的な評価は無意味です。もちろん、必要なレベルに持ち上げる為の研修は熾烈を極めました。これが何の為の研修なのかを説明しながら、ギリギリのラインまでは愛情を持って研修しました。しかし悲しいかな、やがて耐えられない人員が浮き彫りになってきたのです。

 

この人は無理だと判断したら、後は辞めるように仕向けるのです。これが一番辛い仕事なのですが。辞めさせられた、と思わせないように辞めさせる。勿論これは会社側の要請なのですが。この仕事によって、自分という人間の幅が、良くも悪くも広がったと思います。

 

このようにして、都合3人を切りました。中にはプライベートでなら愛すべき人間もいたのですが、仕方ありません。会社で仕事をするのが目的である以上、お友達の関係は一義的には必要ないのです。

 

それに私だって、決して安穏として今の地位まで来た訳ではないのです。それなりの努力、工夫、理不尽な事への対処…などといった苦労はしてきているのです。そんな自分の通ってきた道と照らし合わせると、辞めていった人達は甘いと言わざるを得ない。自分が置かれている状況を打開しようという姿勢が見受けられない。何もしなければ、息を殺してヒッソリと過ごしていれば、その間は食いつなげるという姿勢…だから一旦追い込まれると、逃げる事しか思いつかないのでしょう。

 

そういう生き方も、あるとは思います。ですがこの組織、この会社では必要ないのです。考え方の合わない会社にいても、お互いが不幸になるだけです。辞める、辞めてもらう、というのは合理的な事でもあると私は考えています。

 

でも、嬉しい事もあったのです。

今回彼が辞める事を皆に伝えた後、正社員ではないスタッフの女性が私に「お話があります」と申し出たのです。そんなタイミングでしたから正直、背中に戦慄が走りました。

 

しかし彼女の申し出は、私が危惧したものとは180度違うものでした。

「私、頑張りたいんです。」

 

彼女はかつて別の部署にいて、諸々の理由で一旦会社を辞めて、そしてまた復帰してきたのでした。流石に前の部署には置けないという事で、私が預かっていたのです。

 

そんな経歴ですから、今回、この会社で自分に賭ける意欲、姿勢は並々ならないものがあるのは認識していました。その彼女から、今回の正社員の退職に合わせた、極めて前向きな提案がありました。そして本人からは、出来うれば正社員になりたいという事も言われました。

今はスタッフというポジションなので、どこまで仕事に口を出して良いのか躊躇していたようなのです。この辺りは、私の認識不足だったと反省しました。

彼女には、すぐに正社員は社内事情から難しいが、シナリオと時間軸を持ったプランで社員になる事を考えていこうと話をしました。当然、それに伴うかなりの努力、頑張り、そしてアピールが必要な事は繰り返し話をし、本人も真摯に聞き入っていました。

 

社員がそうであったように、口だけやポーズだけでは何ら評価には繋がりません。しかし正社員であれスタッフであれ、組織の一員として前向きに取り組む人、そして結果を残せる人を評価していこう、という当初の決断を今後も貫くという強い思いを、彼女からの申し出によって改めて持ったのでした。

 

とにかく、ステージが変わったのは事実です。その為の人材も少しづつですが揃いつつあります。もはやかつての部署ではない、という事もアナウンスしたりアピールしたりしています。道のりは相変わらず険しいですが、一歩一歩進んで行きましょう。

食べる。(2010年4月18日の出来事から)

ミスドでお茶してました。東京プレッツェリングというのを食べましたが、要はミスドそのものでしたね…

プレッツェルでないのはいいとして、東京がどの辺りを差していたのだろう、と。東京限定、とかかな…

 

でも店員さんが、ちびっ子眼鏡っ娘で対応がとても良かったので、その点は満足でした。二人いたんですが、おそらく姉妹だったのではないかと。お揃いの眼鏡で顔もクリソツだったから(笑)

 

そういやミスドは今年で40周年なんですね。

私が生まれ育った街に最初に出来たファストフードがミスドでした。あの時代のあの地域にありがちな如く、私の両親は「誰がこんなに食べるの?」という位な数のドーナツを買ってきて、食べろ食べろと子供達に勧めたものでした。

 

基本的に私の親の世代は、食べる事に関してはうるさかったと思います。出された物を残さないようにも躾られました。おかげで男の子の私は大概、残り物の始末を担当する事になり、得てして許容量以上のものを胃に納めなければならなかったりしたものです。

 

私の両親も祖父母も既に他界しましたが、今でも叔父伯母達と会った時に「アンタ食べなくなったねぇ」などと言われます。「だってオレもう45だもの」などと返すのですが。あの人達から見れば、私はまだ子供の頃のままなのでしょう。親が生きていれば、やっぱり同じ事を言ったのかも知れません。

 

ちなみに下の娘はプラダーウィリー症候群という染色体異常に拠る障害で、症状として「食い意地が汚い」というのがあるのです。…何か業のようなものを感じたりもしたものですがね。

下の娘についてはカミサンが「必要以上に食べない」よう躾をしてくれていて、今のところは上手く行っているようです。食べさせる躾、食べさせない躾、様々ですね。条件が違うのだから当たり前なのですが。

 

いずれにしても「食べたくても食べられない」という状況だけは避けなけれはいけないでしょうね。私の親が食べる事にあれだけうるさかったのも、彼等の食べたくても食べられなかった経験があったのでしょうから。食糧自給の事もそうでしょうし、子供を餓死させた親の話などを聞くと心が痛みます。