美術館へ。
練馬区立美術館に行ってきました。
特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才
前説は、こんな感じ。
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磯江毅(いそえつよし1954-2007)は大阪に生まれ、大阪市立工芸高等学校を卒業後まもなく単身でスペインに渡り、30年余りの長きにわたる滞西の間に油彩による写実絵画を探求しました。
やがてアントニオ・ロペス・ガルシアに代表されるマドリード・リアリズムの俊英画家グスタボ・イソエとして認められ、国内外で高い評価を受けました。彼のリアリズム表現は、文字通り事物の細部まで深く入り込んで具象的に描ききるだけでなく、現実世界が内包する神秘的なものまで捉えようとしているような精神の深まりを感じさせます。その根底には生死をかかえこむ生きものへの深い洞察と諦観が見て取れるのです。2005年には広島市立大学芸術学部の教授に就任し、日本での活躍が期待されましたが、2007年惜しくも53歳で急逝。生涯をかけた絵による存在探求の試みは、絵画の高みを示すものとして、死後もなお輝きを発し続けています。
本展は、現代写実絵画に鮮烈な痕跡を残した磯江毅の本格的な回顧展として、磯江の初期から絶作までの代表作約80点を一堂に集め、彼の芸術の軌跡をたどるとともに、その稀有な画業を追想するものです。
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写実です。
まるで写真のようです。
例えば「深い眠り」という裸婦像の大作は、人肌の木目まで細かく描かれていました。
いや、これが鉛筆で描いた「絵」なのか?
などと素人は思ったり。
写実派の画家として、その技術・技量は高いものがあるということなのでしょうか。
「深い眠り」
(1994-95年、紙、鉛筆・水彩・アクリル・墨)
狙ったわけではなかったのですが、ちょうどギャラリートークの時間に行き合わせたので、少しだけ解説を聞きました。
単に鉛筆で描いただけでなく例えばところどころ紙に穴が開いていたり、或いは引っ掻いたり炙ったりもしたのでは?という解説というか推測をされていました。
写実、と言っても単に「本物そっくりに描き写す」ことだけではないんだ、と。
もう一度、前説から引用します。
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彼のリアリズム表現は、文字通り事物の細部まで深く入り込んで具象的に描ききるだけでなく、現実世界が内包する神秘的なものまで捉えようとしているような精神の深まりを感じさせます。その根底には生死をかかえこむ生きものへの深い洞察と諦観が見て取れるのです。
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習作とかデッサンの練習ならば描く技術を磨くのが目的なのでしょうが、作品となるとそこから一歩も二歩も前に出ないといけないのでしょうね。
「サンチェス・コタンの静物(盆の上のあざみとラディッシュ)」 (2000-01年、キャンバス、油彩)
写実絵画であれ写真であれ、そこから何かが伝わってきたり感じられたり考えさせられるものでなければ、作品としてはなかなか評価されないのかもしれないな、などと思った次第です。
要は方法論というかアプローチや手法の違いというだけで。
「新聞紙の上の裸婦」 (1993-94年、紙、ジェッソ・鉛筆・水彩)
ギャラリートークの中では更に、絵として描くものは、いかに写実的であったとしても写真のように「ありのまま」ではない、ということでした。
よく見ると人の足の長さが現実的でなかったりする、と。
被写体が同じであっても写真で撮ったものと、いかに精緻な写実であっても絵に描いたものはピッタリ一致するものではない、ということでした。
もちろんそれは写真と寸分違わず描くことなど出来ないなどという話ではなく、だからこそ人の手で描くことの可能性、表現する上での自由度のようなものがあるということだと思います。
敢えて現実的でない構図をとったり、引っ掻いたり穴を開けたり云々という手法は、そういうことなのでしょう。
自分としても何らか示唆を得た気がします。
また、つらつらと考えてみましょう。
「鰯」 (2007年、板、ジェッソ・鉛筆・水彩)